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茨城の金山遺跡(3) 〜 塩沢金山・一大鉱山の盛衰
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| 06/1/5 UP |
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久慈川支流の大沢川流域にある「塩沢金山」は、
この地域の中でも、古くからある金山といわれ、
佐竹時代に露天掘りで始まったとも、地元では言われています。
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昭和期に入り、「塩沢金山」は、
三井鉱山系の
「北海道硫黄株式会社 塩沢鉱業所」
という大規模な鉱山として、誕生しています。
しかし今は、その大鉱山の面影として、
「精錬所のコンクリート土台」などの
遺構があるのみです。
精錬所遺構のある場所 |
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この大規模な産金鉱山の「北海道硫黄株式会社 塩沢鉱業所」
を知る資料として、
「久慈川のほとり 11号」 久慈川水系環境保全協議会
(大沢川支流の鉱山町の盛衰〜渡邊文子)
「大子風土記」 大子遊史の会
(一大鉱山町の盛衰〜齋藤典生(茨城大学教授))
があります。
その資料には、
昭和期に入り、政府の産金奨励政策の展開があって、大子地方でも産金ブームが
訪れ、昭和9年に、北海道に5つの硫黄山を持つ硫黄専門会社の、
三井系の「北海道硫黄株式会社」が、塩沢金山に目をつけ、買収した。
その結果、この大子地方で例をみない大規模な産金事業所が誕生し、山間の地に
・電気、街灯がつく
・鉱夫、職員らの住宅
・2〜3階建ての合宿所(独身用)4棟
・銭湯2軒
・診療所、配給所、相撲場、活動写真場
の諸設備が建てられ、昭和15〜16年の最盛期には
360人もの鉱夫、職員
が働いていた。
などの説明があります。
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その当時の、
塩沢金山の大規模な施設の配置について、
証言をもとに作成したすばらしい図面が、
上記の
「久慈川のほとり 11号」
の記事に添付されています。
この図面から、
「北海道硫黄株式会社 塩沢鉱業所」が、
いかに規模の大きい産金鉱山であったか、
そして、当時の金山施設の様子が
ビジュアルにうかがえます。
その施設配置の図面を、
作成者の、
小澤圀彦氏(元大子町教育長)
の了解を得て、紹介します。 |
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この大規模な産金鉱山での金鉱石は、
塩沢の全域で 採掘され、約2qくらい
気動車のトロッコで、精錬所に運ばれて、
精錬されたとのことです。
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上の写真との2枚は、
その「北海道硫黄株式会社 塩沢鉱業所」の
精錬所跡のコンクリート土台です。
県道大子美和線から見える位置にあります。 |
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精錬で出た汚泥の廃棄場所には、
大沢川への流出を防ぐため、
コンクリートえん堤
(高さ6メートル、長さ20〜30メートル)
が2カ所つくられ、
今はそのえん堤と、
精錬所跡のコンクリート土台の遺構が、
当時の大鉱山の面影を残しています。
写真は、
精錬所跡から見た大沢川沿いのえん堤。 |
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金鉱石を精錬した後に出た汚泥を
廃棄した場所の、コンクリートえん堤 |
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さらに、資料では閉山に至った経緯について
その後、太平洋戦争が始まり、日本が国際経済の仕組みから離脱すると、
決済手段としての金がほとんど必要でなくなり、軍需物資の増産を優先する
という金山整備令により、「塩沢鉱山所」も昭和18年に閉山に追い込まれた
と説明があります。
同じころに、栃原の金山「金山沢鉱山」も、金山整備令で閉山に追い込まれています。
塩沢鉱山遺構の精錬所跡やえん堤を見て、
そして詳細な施設配置の図面などの資料から、
当時の、三井系の「北海道硫黄株式会社 塩沢鉱業所」が
いかに一大金山であったかを、目にする思いです。
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