●茨城の金山遺跡(9) 〜 八溝山の金山(腐沢)   
2006/7/7 UP
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        八溝山は、続日本後紀の、承和3年(平安初期の836年)の条に
             八溝黄金神に・・・奉り、国司の・・に応じて砂金を採得せしむ。
             能く遣唐使の資を助け・・
        などとあることから、約1200年前から、八溝黄金神の称があり、遣唐使費を潤すなど、
        当時の陸奥国、下野国などとともに、古い産金地であった。


       常陸国佐竹氏の最後の藩主佐竹義宣が、家老に送った金山関係の書状などには
             「保内」「ふうない」
        と、八溝金山の地名が書かれてある。

        これは、陸奥国白川郡に属していた八溝山東南の地(現在の常陸大子町)を
        「保内郷」(ほないごう)とよんでいたことによる。
        
        伝聞では、砂金採掘は、八溝山麓全域にまたがり、産金量も多く、一時期は千人にもおよぶ
        人数が集まっていたと伝えられている。
        
        水戸徳川藩に代わってからも、産金事業は継続されたが、暫時減退したといわれている。
                                              (参照 久慈川のほとり11号)
                     
  
 知人の紹介で、地元の益子さん夫婦に
 佐竹時代に掘られたという、八溝山の
 八溝川支流の
    「腐沢 くされさわ」(草荒沢ともいう)
 の金山跡を案内していただいた。

  
      
 
    
     益子さんの話では、
     
        八溝山全域に金山跡があり、
        地面に垂直に掘った
           縦穴式の金山跡
        も多く見られたが、
        今は、ほとんどが埋没している
  
    とのことだった。  


八溝川支流の腐沢
  



  腐沢沿いの、草むした斜面に
  金山跡が見える。
  

   

  昼なお暗き、八溝山腐沢の金山跡。

  これまで見た手堀りの金山跡のなかでは、
  迫力のある最大の坑口。

  湧き出た水は澄み、冷気を漂わせていた。

      写真を見て、初めて気が付いたが、
      坑口の床面が、
      「石畳」になっているように見える。
      坑口を覆っている葉が落ちたころに、
      もう一度、確認にきてみようと思う。
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