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| 2007/5/22 |
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部垂(へたれ)の地名
佐竹時代の「部垂城跡」の案内板。
この城跡の遺構は、
ほとんど残存していないが
茨城県常陸大宮市内の中心部にある、
「大宮小学校」一帯が城跡になっている。
この「部垂」(へたれ)という地名は、
水戸徳川の時代になって、
現在の「大宮」と呼称を変更している。
参考資料〜大宮町史
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「部垂金山」は、旧久慈川の基底礫層の砂金(柴金)を採掘
@ 佐竹時代の「部垂金山」
茨城を支配していた、佐竹義宣からの朝鮮出兵に際しての書状(1592年)で、
「ふうない」(大子地域)、「南郷」(棚倉地域)、「部垂」(常陸大宮地域)の3つの金山は、
「直山」(じきやま)の方法(検使を付けての直接経営)で管理をするよう指示している。
当時の「部垂金山」は、佐竹金山奉行の支配下に編入されていたとみられる。
A 江戸時代の史料から
江戸時代に編纂された史料、地誌の「新編常陸国誌」、「水府志料」には、
旧常陸大宮町内を流れる久慈川支流の「玉川」から、砂金が出たとの記載がある。
B 瓜連丘陵の久慈川の旧河谷埋積層(引田層) 〜 その基底礫層に砂金鉱床がある
久慈川と那珂川は、山地をはずれた瓜連丘陵でもっとも接近する。
(瓜連丘陵 〜 幅2−2.5q 長さ10qくらい)
この瓜連丘陵の地下に埋没された旧河谷の流路(引田層)は、久慈川に連続している。 その埋没河谷の基底礫層から、砂金鉱床が発見されたことや、
阿武隈山地起源の礫が含まれていることから、、
20万年前の那珂川は久慈川の一支流と推定され、当時の久慈川は水戸方面に流れていた。
その後、10万年前に河岸段丘の発達により、久慈川と那珂川は、二度と接続しなかった。
参考資料〜久慈川のほとり10号
地質調査所月報第27巻
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C 旧大宮町(現常陸大宮市)に点在する金山跡
現在まで知られている旧常陸大宮町の金山として、
「滝沢」「金洗」「辺垂」「金掘」「高の倉」などの各金山跡がある。
参考資料〜図説永田茂衛門親子と三大江堰
D 「部垂金山」は柴金の産地
以上のことから佐竹時代の「部垂金山」は、
瓜連丘陵の旧久慈川の埋没河谷の基底礫層の砂金鉱床から、
露天掘りや穴を掘り進んだりして、柴金(河岸段丘上に埋蔵されている砂金)を
採掘していたものと思われる。 |
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旧久慈川の埋没河谷(引田層)
常陸大宮市の高の倉付近の砂利採取場。
旧久慈川の埋没河谷(引田層)は、
高さ40−50mに達し、
大部分はシルトないし細流砂質シルトからなり、
基底礫層は、最大で高さ10m内外に
達するという。 |
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写真の白い部分が
シルト層のように見える。
地元の方も、色は白いが粘土層ではなく
細粒の砂の層とのこと。
その下部の基底礫層について、
いづれ現場で確認したいと思う。 |
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常陸大宮市内の「高の倉金山」跡で
子供のころに遊んだという地元の方に
鉱口を案内してもらったが、
ヤブがひどく、近寄れなかった。
鉱口は丘陵の下部にあり、
一間くらいの間口で、内部は四方に
坑道が分かれているという。
岩をくりぬいた坑道ではなく、
土を掘った坑道とのことから
柴金採掘の鉱山とみられた。
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「高の倉金山」跡のある丘陵の
高台からの眺望。
田園を隔てて、すぐ目の前には、
20万年前には、
久慈川と合流していたであろう
那珂川が流れている。 |
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