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水戸藩の「御領内御金山一巻」の大要 〜 永田勘衛門 |
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| 2007/8/25 |
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1 江戸時代の常陸金山の実状などを記した「御領内御金山一巻」 〜 永田勘衛門
参考資料 ・ 図説 永田茂衛門親子と三大江堰
(常陸大宮市教育委員会発行)
・ 常陽藝文 2006/9月号
(財団法人 常陽藝文センター発行)
「図説 永田茂衛門親子と三大江堰(えぜき)」には、
父永田茂衛門に従い、金山の開発事業に当たっていた勘衛門が
1692年(元禄5年)、水戸藩(2代藩主徳川光圀)の命を受けて、
水戸藩領内の金山の実状や開発の歴史、今後の見通しなどについて調べた結果を
まとめたのが有名な「御領内御金山一巻」
などと説明があります。
佐竹氏が1602年に秋田へ国替えになり、その90年後、
甲斐の国で金山経営に携わってきた黒川衆の永田親子の目には、
常陸の国の金山がどのように映ったのか、興味のある「御領内御金山一巻」です。
下の「御領内御金山一巻」の写真の
「資金さえあれば開発可能な金山がまだあることを藩に訴えているようにも読み取れます」の
コメントが印象的です。(写真転載は、常陸大宮市教育委員会の了解済)
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「図説 永田茂衛門親子と三大江堰」に掲載の「御領内御金山一巻」 |
永田勘衛門と父茂衛門は、
甲斐の国黒川地方で金山の採掘、経営に携わり武田氏に仕え、
武田氏滅亡後は、徳川氏に仕えた。
1640年(寛永17年)に、新天地を求めた父子は水戸藩に用いられ、(金山開発と)
金山採掘で高めた排水、土木の技術を、一般の水利事業にも生かすことになる。
佐竹時代の金山の
金沢、保内、東山、胴坂(大子町) 部垂(常陸大宮市)
南郷(福島県東白河郡) 大久保、山尾(日立市)
瀬谷(常陸太田市) 木葉下(水戸市) 他
からの採掘量は、1598年(慶長3年)の豊臣秀吉への金山税の記録によると、
越後、佐渡についで第3位だったといわれる。
江戸時代になっても掘り続けられ、廃坑跡の再開発もすすめられ、
茂衛門、勘衛門親子も、常陸の国の佐竹坑に強い関心を示し、
その再興に当たっていた。
しかし、繁栄を誇った常陸の金山も、永田茂衛門父子が移住してからもまなくすると、
産出量が年ごとに減るようになり、閉山に追い込まれる金山も目立つようになる。
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2 「御領内御金山一巻」の大要
「図説 永田茂衛門親子と三大江堰」 (常陸大宮市教育委員会発行)に掲載の
「御領内御金山一巻」の大要
を、同教育委員会のご了解を得て紹介します。
OCRソフトで転載(太文字は加筆)
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木葉下金山
(1)木葉下金山(水戸市)は、
10年前(1682)まで古い時代の坑道(間歩)を見立てて採掘を続けた。
利益もあがったが、大雨が降ったとき、坑道に水が流れ込み操業はできなくなった。
30両の資金が用意できれば再興は夢ではない。
近くには新金山として開発可能の鉱脈もある。
高野銀山
(2)高野銀山(城里町)は、32年前の寛文元年(1661)まで錫を掘っていた。
その最中に銀鉱脈を発見し、採掘を続けたが坑内に水が湧き出し廃坑となった。
(3)同村(高野)の錫は、53年前(寛永17年)江戸の商人らによって新たな鉱脈が発見され、
かなりの量が採掘された。
しかしその後、錫の値段が下がり利益がなくなり、次第にすたれた。
価格が上がれば再開してもよい。
武茂領の金山
(4)武茂領(栃木県那珂川町、当時水戸藩の領地)の武部、大山田上・下郷からも
先年多くの金を掘り出した。
父の茂衛門と私(勘衛門)は開発をすすめられたが、不都合が生じそれができなくなった。
塩沢金山、仏沢金山、久隆金山、手古屋金山(栃原金山)
(5)塩沢金山(大子町)は、34、5年前(17世紀中ごろ)まで、金掘衆が集まりにぎわった。
現在では6.7人が農民となり残っているにすぎない。
近くには仏沢金山、久隆金山、手古屋金山がある。
200両の資金があれば開発できる。
小久慈金山
(6)小久慈金山(大子町)の開発は、一時栄えたが、その後すたれた。
しばらくして(17世紀半ば)再開したがまたすたれた。
10年後、勘衛門が良い金脈を掘り当てたが、
隠し掘りがわかって入牢の処分を受けてしまった。
金山内にはすぐれた金脈が3か所ある。
八溝金山
(7)八溝山中には古くから多くの金が採れる。
殆石(かぶれいし)には太い金鉱脈がある。
そのほか旧坑道の中にもすぐれた鉱脈が眠っていると地元民は話している。
町屋金山
(8)町屋金山(常陸太田市)は50年以前、
郡奉行長瀬半兵衛の時代金掘り衆が集まって水抜きをして掘ったが成功しなかった。
その廃坑を私が再開し利益もあがった。
しかし深掘りを続けているうち、水が湧き出し、作業ができなくなり止めてしまった。
金沢金山
(9)金沢(日立市)村の諸金山は、
盛んなときは利益も上がったが今後はあまり期待できない。
(10)宮田村(日立市)の赤沢銅山は親の代(茂衛門)から3度掘ったが、
鉱毒問題が起こったり、銅価格が下がったりした上、
製錬用木炭の不足・高騰などですたれた。
ただ木ノ根坂という所には有望な鉱脈が眠っているが、
木炭が高値で操業しても採算に合わない。
そして勘衛門は最後に
「私の記憶を右のとおり申し上げた。
ほかにも鉱山を開いた場所があると聞いているが記憶が薄れ伝えられない」
としめくくっています。
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茨城の金山遺跡の「主要金山位置図」
参考資料 〜 「領域の研究」茨城の金山遺跡
(阿久津久先生還暦記念論集)
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3 永田親子が工事を担当した水戸藩の三大江堰(えぜき)
水戸藩では、17世紀半ばごろになると、灌がい用水として
久慈川や那珂川に、次々と巨大な江堰が築かれるようになった。
当時としては、
久慈川や那珂川をせき止めることなど、夢のような話しであったが
これらの水利土木の工事を担当したのが、金山開発者の
永田茂衛門、勘衛門親子だった。
そのころの鉱山開発者の多くは、測量術(水守)や岩盤掘削術にたけ、
永田親子が担当者に選ばれたのは当然のことであった。
なかでも、
久慈川の、辰ノ口堰、岩崎堰、
那珂川の、小場堰
は、その規模の大きさや灌がい面積の広さから「三大江堰」とよばれ、
当初の形は大きく変えてはいるが、今も立派に機能している。
この永田家の輝かしい業績を称え、
水戸藩の二代藩主光圀や九代藩主斉昭など歴代藩主から
帯刀のうえ御目見を認められるなど、特別な取りはからいを受けている。
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辰ノ口堰(ぜき)
久慈川 〜 常陸大宮市 |
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岩崎堰
久慈川 〜 常陸大宮市 |
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小場(おば)堰
那珂川 〜 常陸大宮市 |
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